昭和44年12月03日 朝の御理解
天地書附
「生神金光大神天地金乃神 一心願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼め。」
和賀心を求め、和賀心を願って今月今日で一心に頼んでいく生活。お道の信奉者の信心生活と言うものはそこのところに焦点を置くことだろうとこう思うですそこで一心に願う。または和賀心を願うと、というても和賀心を願うたから和賀心が頂けれるというのではない。私は今日はご神前で、色々お願いさせてもらいましたら、あんパンでしょうかチョコレートパンでしょうか、あのカエルの口のようなパンがありますね。
それで、あんこがそれこそ、口みずがたれるように甘いものが好きな者なら、あんこがこう出ておるパンがありますよね。実際割ってみると中にはあんこは入っていない。いわゆる口のところにだけ、あんがいっぱい入っていると言った様なものがあります。一口食べたら後はあんが入っていないち言うのがある。その、パンのお知らせを頂いてから、今日、教典を開かせて頂きましたらこの天地書附のところと次の。
神誡と一枚はぐった所ですね、神誡と。これを頂くのですよ。ですから私は今日私そこんところだけを一つあの頂かせてもらおう、今年も最後の月と、どこに焦点をおいて修行させてもらおうと、言う事にお互いが心をねらせて頂いておるのでございますが、金光様の御信心にはこれ以外にないという事です。どうも合楽の信心はまあいうならばそれこそはばかりながらでありましてから、いかにも美味しそうにしておる。
ところが一口食べてみるとそれだけ後はそのあんこは入っていないと言った様な私は感じだと思うのですね。合楽の信心を厳密にまあ評価したらですね。いうならば見掛けばっかりだと。というのが、私は合楽の信心だとおもうのです。そこで私共がですね本当に金光様の御信心はもうここに極まっておるのでございますから、今月今日を一心に和賀心を願うていくということでございますけれども。
なら、それを願うていったから和賀心が心に頂けれるというのではないのです。そこで私共はやはり、一枚ちょっとはぐって見て下さい。白紙にかえらなければいけない。白紙ですね。そしてそこに神誡とあります。ですから私共が虚心坦懐とでもうしますかね、信心の色々難しいことをまあ言う前にです、金光様の御信心はまず、この天地書附を私共がいつも自分の心に向けさせて頂いて。
和賀心を今月今日ただ今を祈っていく願っていくというわけなんですけれど、その願ったからというて、祈ったからというて、和賀心が頂けれるのではないと。なら今年のスローガンであります、より明るくとかその、よりにこやかにと言うて、はあ「これはもう今年はこれでいけるから、明るくいこうにこやかにいこう」とまあ、その時その時はですにこやかにしていく、その勤めることは決して無駄ではございませんけれどもです、その根本になるのはやはり、和賀心なのです。
私共の心の底に和賀心を頂いて初めて、明るくもにこやかになれるのです。ですから、それを願ったからというて、おかげを受けられるのではないのだ。そこで私が虚心坦懐、自分の心を一つ白紙にしてです、もう、信心はここに極まったという、教祖の神様が様々のここに神誡をここに、こうあらなければならなんぞ、こうあってはならないぞと、言う事を厳しくと、仰っておられないですね。
いわばその気になれば出来れること。そしてこの、「真の道の心得」いわゆる御神誡をです私共もう一遍頂いてみて、金光様の御信心をさせて頂くなら、これであってはいけん。こういう事ではいけないと、と言う事をですね本気で行じる以外にないと私は思う。いかにも自分を窮屈の中に追い込んでるようですけれども、そりゃ窮屈でしょう。ああしちゃいけん、こうしちゃでけんとこう言われたら。
けれどもそれが身についてくる。ね。それが自分の人となりにも自分の信心の内容にもですちゃんと身についてくる。昨夜、御祈念が終わりましてからコタツの間でお茶でも頂きながら色々話させてもらう中に、この、若先生が今度御本部へ行って古川の方へよらせて頂いてからですね、感じたことはその家の家風ということ。なにかその家の隅々までですねその家風を感じるとこういう。
まあその家に一つ家訓といったようなものがあるといたしますか、古川の家に。そういう意味で大坪の家にはそういうものがない。それを感じる。それがいわば身についてしまっているという感じ。「だから、姉さんもそういうような一つの厳しいというわけでないけれども、一つの家風の中に入ってしまうまでがまあ修行だろう」と言う意味の事を話しておりましたけれども、最近は何んというですかね。
民主主義とでもいいますか、そのレジャーと言う様な事を申しますね。家の中がただ、ざっくばらんとしかも家の中に一部屋一部屋その、楽しい、とか愉快なとかという雰囲気。例えばテレビなんかでも一人一人の部屋にまあ贅沢のところはですね、置いてあるといったような、その、まあいうなら楽な生活といったようなものがですね。もうそのいかめしいというか、古風な家庭の雰囲気といったようなものを壊してしまってそういう風になっていきよるといったような話しをしたことでございますけれどもね。
ですからそういう一つの厳しいようであるけれども、そこの家に一つのまあ、家訓といったようなものがあってですね、家の教えといったようなものがあって、教えに従うた生活というものが身についてしまえばです、そこに何とはなしに一つの家の風格と言った様なものがあるのだと、というわけなんです。ですから私共は金光様の御信心をさせて頂くものはです、まあここにああやって、まあ、中にあらなければならんと。
言った様なものがね、身についてしまわなければならん。金光様の御信心を頂けば。一様はですね。ここのところをですね、根本にするというここん所の私は、慎みというか信心が出来て初めて、和賀心を願う一心になると言う事にならなければいかに、和賀心ばかりを願ったところでですね、和賀心が与えられるのではない。どうもそういう意味で合楽の場合はねそれを私が、今日ご神前で頂きましたように見た目にはもう本当に、一口食べなきゃおられないように、美味しいような雰囲気を持っておる。
けれども一口食べてみると後はあんこが入っていないと言う様な是が合楽の信心ではなかろうかと今日は私改めて思わせて頂いて、もういっぺんここのところをです、いわゆる白紙になってです、私共がいわば少しはその、厳しいようですけれども、例えば身を慎めとこう仰る。言葉を慎め、態度を慎め、といったようなことだけでも私共は出来ていない。あまりにも楽なほうばかりをとってその中に、神様がござるんだ。
その中に信心があるんだと言った様な感じを受けるのが、まあ合楽の信心だということを今日は改めて思わせて頂きましてね、これはもう少し本気でこの信心させて頂く者の、こうあらなければならない、こうならなければならないというところを本気で身につけていきたい。 そこんところ今日は神誡と頂いたのではなかろうかと。もう、金光様の御信心をさせて頂くならばこの天地書附ここんところに焦点をおいて。
それが自分の信条になっていくということはです、もう、いよいよのところもうここに極まっておるのでございますから、おかげは結局和賀心にあるのでございますから、なら、おかげと和賀心が繋がっておるから、和賀心和賀心と一心に願ったところで、和賀心が頂けれるものではない。やはり神様が言うて下さることもやはり一応はマスターさせてもらう、聞かせてもろうて、私共の願いであるところの和賀心にならせてくださいというのでなからなければ、おかげが受けられないとこう思うのです。
ただ一心に願う、一心に和賀心ばかりを願うというだけではいけない。最近、最近というか、ここに一、二回ですけれども、それこそそうですね、玉串案の位に長い大きなパンのお供えを頂くのですよ。二尺くらいあるでしょう。大きな袋に入っておる。それが福岡で大変有名なパンだそうです。非常にかたい。中はやわいけれどもね。それに側は固くて中がやわいと言うところが私ありがたいと思うのですね。
側はやわらかいやわぁくしとって、中は硬いという。勿論そのあんこがはみ出ておるわけでもない。食べてみると何か塩っぱい、バタ臭いというだけなんだけれども、食べよるとその硬いパンがなかなか味があるのですよ。それで私はこの頃、神様が二食主義だからパンの食を一食増やしてから、三食にしようかと言うておったんですけれども、今朝の御理解を頂いたらそれはちょっと可笑しいですね。
もう楽な方ばっかり取ろうとする。だから神様がこういう大きいパンを次々下さるというね、これはそれこそ、一食はパンにせよと言うて下さっておるような気がするのです。それを私は二食は二食当たり前に今まで通り頂いてからパンだけはまた余分に食べようち(笑)決めておったんです。夕べもそれを頂きながら感じたんです。はあ丁度夜食には丁度よかと思うちからですね、それではやはりいけんのです。
今朝の御理解を頂いてからパンのそれを頂いてからね、まあ、改めて今日から一食をパンにしてという事になればですね、しかもその普通では足るような美味しいパンじゃないですけれども、食べよれば食べよるほど味が出てくるというパンなのである。成るほどこれに牛乳でも添えていただいたらよかろう。今朝からそういう風に決心させて頂いたわけですけれどもね。
どうも私共の信心はどうも一口アンパンのような信心で、小味のあるところ、食べれば食べるほどなんとはなしに味があるもの。そういう私は信心に今日は改めて、そういう風に感じたのでございます。皆さんも一つ銘々の信心の心に手をおいてみてです、本当にやっぱり合楽の信心はそういうところがある。それに夕べ話しが出たんですけれども、あれは、何とかというPL教団かなんかの話しが出てましたね。
若先生が話してました。あちらはですねこの食べる。会合の時に物を食べたり飲んだりするという事によってこの、人の心を盗んでいこうという非常にそのことを奨励するそうですね。しかし本当にこれは確かにそうなんです。飲んだり食べたりしておるうちに段々心が休まる。ざっくばらんになるお互いの心と心が打ち解けくる。確かにそういう働きは食べ物を囲んでの集いといったものには確かにそのように思います。
そして、なら、昔の椛目時代の草創の頃を思います。月次祭といえば一晩中食べたり飲んだりでしたもんね。確かに初めてのものが集まりおうておってもそれでなんとはなしにそういう気分が出ました。いわゆる、親睦を図ると言う意味合いにおいて非常に役立ちました。けれども、そういう事が段々段々なくなって、このまいりまして、現在の合楽教会の生き方があるわけでございますが。
合楽の素晴らしい所はそこだと私は思うのです。いけないとなったらスパッと辞めて改めて行くと言う事。そしてより本当な事へ向かって進んでおるという事。ここ二十年の合楽の歩みというものを思うて見ると、例えばそういう風に感じられるのです。どんなに素晴らしい雰囲気を持っておってもです、それよりかもっといい物があると気がつかせて頂いたら、そこへずっとこう改めていくというそれがようやく今。
今日頂いたパンのようなところになっておるのでございますからどうでもこの、側たんは硬い。別にあんこがついておるわけではない。けれどもです、食べれば味がある。しかも小味があるというその、パンの味にも似たような信心を私はまあいうならば、今日を境にそういう信心に目指させて頂こう、まあ、そういう信心に目指させて頂こうと言う事よりももう、今月の締めくくりをそこんところに焦点におい。
一つ身に付けさせて頂こうと。一心に願わせて頂く和賀心。これが金光様の御信心のいうなら始めの信心がそれであると同時に最後もまたここなのです。天地書附。「一心に願えおかげは和賀心にあるのだ」と。始めにして最後のもの。それこそ、これが天地書附だ。その天地書付をどうぞどうぞ私の心に和らぎ賀ぶ心を与えてください、和賀心を与えてくださいというだけの信心からです。
それをいよいよ厳密に頂かせて頂くためにはです、この神誡である。もう一遍この虚心坦懐にならせて頂いてです、白紙に成らせて頂いてです、神様が願うてござる氏子こうあってくれよ、こうあってはならないぞと。信心させて頂くものはこうなければいけないぞと言う事を御神誡に例えばうたってくださってあるのでございますからです、その神様が言うて下さることも、一応私はそれを自分のものにしていくというところから和賀心を願わせていただくなら和賀心が許されるだろう。
より明るく、よりにこやかにもなれるのは、そこからだと、言う風に今日は私は感じるのでございます。どうも合楽の信心は本当にはばかりながらであって、見掛けはちょっとよかごたる。けれども一口食べてみると、後は味気がないと言った様な、味気がありましょう。けれども一口があんまり美味しいもんですから、後は美味しくなかごたる気がして、もうぽんと捨てたいごたる感じがあるのではなかろうかと。
それよりもそれこそ、今私が頂いておりますね、福岡の婦人がフランスパンの大きなね、いわゆるそういうパンに取り組ませて頂く。側たんはそれこそがちがちである。なかはやわい。甘いこともなからなければ、その一口食べて美味しいと言うことではない。噛めば噛むほど味が出るというパンである。小味のあるパンである。そういう信心をですね合楽のこれからの信心はそこに。
ういうところを目指していかなければならんのだろうという風に今朝は感じました。合楽の信心生活がそのように例えば、過去二十年間のことを振りかえってみて段々段々こう、改められて本当な事へ本当な方へと私共は進んでまいりました。現在ここまできておる。ですからここからの信心をです、この12月の月に本気で、一つそのことに取り組ませて頂いたらです。
成るほど、この小味のある、信心こそ、これは何時までも身につけていかなければならない、信心だなと分からせて頂くことであろうと思うのです。天地書附。いわゆる「生神金光大神天地金乃神一心に願え。おかげは和賀心にあり」確かにおかげは和賀心にあるのだという事はお互い分かったんですから、ところがなかなか和賀心になれません。それは私共が神誡をね、神誡という事はこれは神様がああってくれよ。
信心させて頂くものはこうあらなければいけないぞというて下さるそのことにです、取り組むことが私共が出来ていないから、神様の言う事を聞きよらんからこちらの願いが聞き届けられんのだと分からせてもろうて、ここにもういっちょ白紙になって神誡をね、いわゆるお道の信心をいわば、血に肉にしていこうと言う事をまず、考えなければならないとまず私共にはそういう意味合いでです。
言葉使い一つの上においても態度の上におきましても、お道の御信心ぶりというものが、出て来る現われてくるようないわば慎ませていただくといったようなことから何時の間にかそれがね、私の信心の風というものを作る。そこへです、私はまた、家の雰囲気といったようなものもです、変わってくるのではなかろうかとね、何とは成しに金光様の御信心、御信者さんのお家に入らせて頂いただけでも何とはなしにです。
まあ、襟を正さなければならないなんていうことはまあ少しオーバーかもしれませんけれども、何とはなしにです、感じられるくらいなものは身にも家にもにもつけていきたいと願われます。どうぞ私共の信心はまず、それを知らなければならん。私達の信心が今日申しますようにどの信者さんを見ても素晴らしい、というような感じを与える人が多いのですね。合楽には。
けれども、本当に素晴らしいかというとそうじゃないとです。丁度あんこが外へ、こう流れ出るようにかかっておるパンのようなものである。一口食べたら後はそうではないというのが私共の信心、合楽の信心の正体なのだ。そこで今日その正体を私共は分かったのだからですですからそういう正体では和賀心が許されない。本当の意味合いにおいてのおかげの頂けれる心が許されない。
それで私共、少し、以下の修行ですけれども、今私が毎日頂いておる、パンをそれも私の考えは、はあこういうパンを頂くならこれ二食のをもう一食増やしてからこのパンば一食頂くことにしようなんてんな甘い考え方ではいけません。このパンを一食頂かせて頂くのですから、やはり二食は二食、というところを堅持してそして美味しくは、飛びつくほどに美味しくはなくてもです、食べれば食べるほど、小味が出てくるようなパンのおかげを身につけさせて頂こうと今日は思いました。
皆さんも私が感じたような事を同感されただろうと思います。確かにそうだ合楽の信心はちょっと素晴らしい。けれどもようとみよると素晴らしくないというのが実態ではないだろうか。見れば見るほど素晴らしい。分かれば分かるほど合楽の信心は素晴らしい。その大きなフランスパンじゃないけれども、食べれば食べるほど小味が出て来るというそういう信心をこれから目指したいと私は思います。
どうぞ